司会は、講談社のオザワ氏。
話は、和田誠版の『東京見物』のイラストを、プロジェクターで映して、それらを見ながら、進みます。昔の『東京見物』のイラストと対比しながらのトークです。

↑壇上のそばにある、花束とポスター。
オザワ「最初のページは、日本橋の狛犬さんです」
和田「昔の(『東京見物』の)絵は、ただ狛犬だけだったけど、ボクはそれじゃぁつまんないので、少し引きで描いたのね。この資料の写真を撮った時、ちょうど自転車に乗ったサラリーマンがそばを通ったので、描き入れてます」
オザワ「昔の旅は、日本橋からって言いますけど、このサラリーマンも旅人みたいで、良いですね」
和田「背中にちょっと哀愁があってね。集金に行くところみたいな」
和田「昔の『東京見物』は、昭和12年に発行されたんですが、当時は満州事変から始まった日中戦争をやっているので、絵本に戦時色が出ているのね。絵本の中にも、廣瀬中佐の銅像・・・と言っても分からないだろうけど、秋葉原の万世橋あたりに廣瀬中佐の銅像があったんです。それが、『東京見物』にも載ってます」
注釈)廣瀬中佐/廣瀬武夫。明治の大日本帝国海軍・軍人。日露戦争において、部下の杉野兵長を助けるために、戦死。その後、太平洋戦争が終わるまで、軍神とあがめられた。
和田「昭和20年の3月に、ボクらの家族は、東京に引き上げてきたんです。両親は故郷に帰る感覚だけど、ボクにとっては、初めての東京でした。世田谷の代田、昔は中原って言ったけど、そこに住むことになった。3月で、まだ雪が残っていてね。大阪じゃ雪なんて滅多に見られなかったから、東京の最初の印象は、寒いところだな〜ってことと、雪です」
和田「当時は、大阪から東京まで、汽車で丸2日かかった。戦時中だから、灯火管制と言って、時々明かりを消すのね。敵機に見つかるから。名古屋の辺りで、灯火管制になって、汽車が止まっていたんだけど、両脇の窓は、炎でボーボー。ちょうど、名古屋大空襲の時だったんだ。
そんな感じなんで、子供の持ち物とかほとんど処分されて、『東京見物』も大阪に置いてきちゃったの。で、戦後になって、『東京見物』の最初のページにあった狛犬を、初めて見た。感動とはいかないけれど、絵本の中の狛犬の実物を見たっていう感慨はありました」
オザワ「今はメディアが発達していて、テレビでもなんでも、実物を見られちゃうけれども、当時はそうじゃないですから、感動はあったのではないでしょうか」
和田「狛犬の次は、昔のは、二重橋の絵。天皇陛下のお住まいになっているところで、頭を下げている人が描かれているけど、ボクの描いた二重橋は、外人さんがおばさんに道を聞いてたり、記念写真屋さんも、修学旅行とかのシーズンでもないので、暇そうにしている様子を描いてます。今はみんなデジカメも持ってるしね。戦前にこんな絵を描いていたら、怒られるね(笑)。
ボクの子供の頃は、天皇陛下って言葉を聞くと、背筋をビシッとしないといけなかったから。そうしないと、先生に殴られたからね」
和田「次は、国会議事堂。ボクの絵は、議員に連れられた観光客が、集合して記念写真を撮ってる絵。昔の方は、議事堂は同じなんだけど、そこから天皇陛下が馬車に乗ってお出ましになるところです」
東京駅の絵が映される。
オザワ「ここで皆さんからの質問を紹介しますと、今東京駅は工事中なのに、何を参考に東京駅を描いたのですか?ということですがー」
和田「それは、完成予想図の絵とか、少し前の写真とかを参考に、それらをミックスして描いてます。バックには、現代らしく高層ビルを描き入れてます」
六本木ヒルズの絵。
和田「続いては、六本木ヒルズ。昔のは、確か丸ビルだよね。今を代表する高層ビルということで、六本木ヒルズを描きました。左端のビルが、テレビ朝日ね。ヒルズの下は公園みたいになっていて、ボクが行った時は、ちょうど昼休みみたいでした」
新宿末廣亭の絵が映される。
和田「昔のは、歌舞伎座の中でしたよね。同じ古典芸能ということで、ボクのは落語を選んで、新宿の末廣亭を描きました。客席に人がまばらなのは、描くのがめんどくさいわけじゃなく、この日は少なかったのね」
隅田川にかかる、清洲橋の絵。
和田「これは、昔のも清洲橋で、同じ角度から描きたいって思って、描いてます」
オザワ「橋のブルーが、色鮮やかでキレイですねー」
和田「わざとキレイに描いているんだけどね。昔のは、橋のバックに、工場の煙突があったけど、今はビルになってます。隅田川をゆく船も、近代化しています。変わりゆく風景ですね。
ボクは取材のために、一回じゃなく、何回も足を運んでます。プロのカメラマンに撮ってもらっても、あとで見直して違うなって思ったら、自分でまた撮りに行きます」
竹下通りの絵。
和田「昔の方は、浅草の仲見世商店街の風景だけど、今も同じように、人が多いのね。それで、今、道幅が狭くて、人でごった返しているところは何処かなって思って、竹下通りにしました。人がとにかく多くて、描くのに時間がかかりました」
レインボーブリッジの夜景の絵。
和田「昔のは、上野の西郷さんの銅像だけど、ボクは夜景が描きたくてね。それで、夜のレインボーブリッジを描きました。すごくキレイなんだよね」
地下鉄銀座線の浅草駅の絵。
和田「これは昔の(『東京見物』の絵の)アングルと、まったく同じ角度で描きたいってリクエストして、描きました。」
注釈)アングルは、浅草駅に停車している銀座線を、真正面から描いている。このアングルだと、線路に降りてみないと描けない。
和田「これの取材は面白かった!線路に降りて描きたいって、東京メトロに頼んで、無理をきいてもらったんです。メトロ側の条件は、終電が出たあとなら良いと。それと銀座線は、線路に電気が通っているので、降りると感電しちゃうので、電気を切って、電気がなくなるまで待って、写真を撮りました。
昔映画で『サブウェイ・パニック』というのがあって、地下鉄ハイジャック犯が、線路に足をついて(感電して)自殺するんだけど、それを知っていると、線路に降りるのは怖いよ〜(笑)。
ところで、昔の絵描きさんは、どうやってこのアングルで絵を描けたのかねぇ。
取材で面白かったのは、終電が終わってからも、メトロの人って、働いているのね。安全点検のためにね。それと、巨大なネズミがいる!猫くらいの大きさのネズミが大勢いるんだから。あれは、何食べているんだろうねぇ」
上野科学博物館の絵。ティラノサウルスの骨の展示を驚いてみている子供達。
和田「昔のは、上野動物園を描いているんだけど、今も同じのを描いても仕方がないので、ボクが好きだという理由もあるんだけど、上野科学博物館を描きました。大人から子供まで、楽しめると思うしね。
ボクは子供の頃から、上野科学博物館が好きなんだけど、特に好きだったのは、当時は入り口から入ると、どこかの土人・・・と言っちゃいけないんだけど、そういう人たちの「干し首」が飾ってあったのね。骨とか抜いてあって、握り拳くらいの大きさになった首で、皮膚が青い。ホントに、青いんです。それが不気味で、好きでね。それから、ミイラも好きだった。変な子供だね(苦笑)。
国立博物館に展示されている土偶も好きだった。土偶のデザインって、人間をデフォルメした面白さがあって、好きなんです。もしかしたら、知らず知らずに土偶のデザインに画風が影響を受けているのかもしれません」
和田「さて、昔のやつは、デパートの中の絵を描いているんだけど、オザワさんから、「ここらで一発、俯瞰で描きませんか」と提案されて、昔と今の東京が一緒に混在している場所で描きたいってことで、浜離宮恩賜庭園と汐留シオサイドを、上空からから描いています。庭園のそばに、日本テレビや電通のビルがあります。
描くのにすごく時間がかかった絵で、のべ一週間かかりました」
和田「次は、銀座。銀座の昔と今の対比です。昔の絵は、銀座の夜景です。当時は都電・・・じゃなくて、市電(東京市だったから)が走っていてね。ボクが資料写真を撮りに行った時は、真っ昼間で、だから昼間の銀座を描きました。たまたま外人さん達がいたので、絵に描いてます。ボクは銀座のデザイン会社に、9年間勤めていたので、懐かしい場所です」
和田「昔の『東京見物』は、廣瀬中佐の銅像の絵と、隣はラジオ局のスタジオの様子が描かれてます。愛宕山にあった、日本放送協会。今のNHKね。
今はやっぱりテレビだろうってことで、ボクのはテレビ局を描きました。最初は民放の『笑っていいとも!』のスタジオを描こうと思ったんだけど、結局NHKの大河ドラマのスタジオにしました。ちょうど『天地人』を撮影しているところです。中央に主演の妻夫木聡と、笹野高史がいます。
この絵も、時間がかかりましたね。セットとか移動のカメラとか機械があるからね。いい加減に描くと、後で機械に詳しい人に色々言われそうなので、正確に描いてます」
ー『東京見物』刊行記念/和田誠トークショー3に続きます。
※笠置シズ子のナンバーから、「東京ブギウギ」(1947年)をどうぞ。
笠置シズ子さんと言えば、私にとっては、カネヨ石けんの台所クレンザー「カネヨン」CMで覚えてますね。「奥さん!カネヨンでっせ!」と明るい笑顔でしゃべっていたのを覚えてます。
40歳前後くらいが、笠置さんをリアルタイムで知る最後の世代かもしれません。
東京ブギウギ / 笠置シヅ子
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