2008年10月25日

一峰大二原画展 前編

 テレビのヒーロー番組のコミカライズでお馴染み、一峰大二先生の原画展が、さいたま市立漫画会館で行われております。

 本日は、一峰先生が来場されて、ギャラリートークが開催されるということで、参加してきました。

 さいたま市立漫画会館は、最寄り駅の大宮公園駅(東武野田線)から近いんですが、周りは住宅街で、探すのに少し苦労しました。



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↑さいたま市立漫画会館。

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↑ポスター。

 ギャラリートークは午後2時からですが、私はお昼についてしまいました。

 漫画会館2階の展示室の中央には、一峰先生の復刻漫画が陳列されていて読めるようになっているので、展示室内のイスに座って、漫画を読みながら、まったり過ごしました。『ナショナルキッド』を借りて、読みます。

 私を含め、3人くらいしかいなかった展示室も、午後2時を迎える頃には、60人くらいのお客が集まってました。皆、一峰マンガで育ったとおぼしき、40代以上の男子。

 一峰先生が、会場に笑顔で登場。黒で統一された服装。頭には、トレードマークのバンダナ。会場内、大拍手で迎えます。

 先生の意向で、参加者がイスに座った前でトークではなく、皆で展示を見て回りながら、先生が解説を語る形式になります。

 展示内容は、原画展ということで、作品ごとの生原稿の展示です。それらをデビューから順に、先生とたどっていきます。

 今回先生の許可が出て、ギャラリートーク中は、写真撮影OK。それと残念だったのは、終わってからサイン会みたいなことは、やらないということ。これは、漫画会館の方針みたいですね。販促目的のイベントではない、ということらしい。

 家から重い思いをして、一峰作品を4冊持ち込んだのですが、残念。

 さて、まずは先生のご挨拶から。

一峰「皆さん、こんにちは!お互い、歳を取りましたね(苦笑)。

私はねぇ、よく競作させられてねぇ。『ウルトラマン』の時は、楳図かずおが(同時に)描いてました。あの独特の世界には、かなわないと思いましたね。で、『ウルトラセブン』では、兄弟子の桑田次郎。彼は絵が上手いでしょう。かなわなかった。でも、ウルトラマンとセブンを両方描いたのは、私だけなんです。それは、幸せですね」

 僕は、18歳の頃、岡友彦という挿絵画家の弟子になりました。浅草にある先生のご自宅に行って、原稿を見て頂いたんです。そばには、弟子の桑田次郎がいました。

 先生は私の原稿を見て、何も言わないで、桑田次郎に見せるんです。桑田も、何も言わない。無言の時間が流れました。無言っていうのは、辛いものですね〜。

 しばらく黙っていた先生が、一言「じゃぁ、(ウチへ)通ってみますか」とおっしゃったんです。上手いとはいわずに、通ってみますかって言うんですね。それで、通うことになりました。

 あの時の無言の時間は辛かったんで、今日はなるだけ、皆さんにたくさんお話ししようかと思います」

 先生はそう言って、デビュー当時の作品展示の方へ移動。我々ももそもそ移動です。

一峰「私の本名は、寺田国治と言います。光文社の『少年』で、『謎のからくり屋敷』という別冊付録でデビューしました(昭和31年)。

 私の担当の編集者というのはいなくて、『少年』の編集長の金井武志さんが、見てくれました。

 私が作品を持ち込んでも、主人公の顔が良くない、喜怒哀楽がないと言って、だめ出しをするんです。ダメな顔には、「レ」というチェックが入るんです。

 それで、光文社は音羽にあったんですが、自転車で通いました。結局420回、主人公の顔を描き直しました。

 あとで知ったことなんですが、金井さんは、岡先生の弟子と言うことで、最初からデビューさせることは決めていたらしいんです。420回も描き直しをさせたのは、プロとしてやっていけるかの、根性試しみたいだったようです。ある種の優しさですね。今では、感謝しています」

「この次に、『野球少年』(芳文社)に描きました。当時この雑誌には、寺田ヒロオさんが、野球漫画を2本連載していました。『背番号0』と『スポーツマン佐助』ですか。

 それで私の本名も、「寺田」なわけです。一誌に寺田が3つ並んでしまうので、ペンネームをつけることになりました。編集長が茨城県の人で、「茨城には利根川という川があって、その恵みでたくさんの農作物を作っている。だから、「利根大作」という名前はどうだ?と言ってきました。私は困りましてねぇ(苦笑)。

 それで、考えました。名字は、師匠の岡先生みたいに、一文字にしようと。で、当時、『明星』だか『平凡』だかの雑誌(映画スターのなどの芸能雑誌)に、「み」のつく名前は、出世するという記事がありました。それで名字は、「峰」としました。名前は、編集長の言った「大作」の「大」を取り、本名の「国治(くにじ)」の「じ」を「二」にして、「峰大二」にしたんです。

 それを電話で編集長に伝えたんですが、とっさに「二」があるのに「一」がないのはおかしいと思ってしまい、「一峰大二」に決めましたと編集長に言いました。

 その時の伝え方が悪かったようで、『野球少年』の付録では「一嶺大二」と印刷されています」

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↑「一嶺大二」名義の付録。

 次は『七色仮面』(昭和34年)のコーナー。

一峰「『少年倶楽部』(講談社)では、兄弟子の桑田次郎が、川内康範の原作で『月光仮面』を描いてました。それで、同じ川内先生の原作で『七色仮面』というのが(テレビで)始まるんで、桑田の弟分に一峰というのがいるから、それに漫画を描かせようということになったようです。講談社の『ぼくら』という雑誌です。

 これには、「コブラ仮面」というのが出てくるんですが、これが怖くて、PTA代表という人から教育上良くないと手紙がきました。当時は雑誌に、私の住んでいる家の住所が載ってましかたらね。○○先生に励ましのお便りをあげよう、っていうやつです。

 それで青くなって編集長に相談したんですが、「マスコミというのは、良くも悪くも騒がれることに価値があるんだよ。騒がれないのが一番だめなんだ」と言われまして、講談社の前の寿司屋で、お寿司をごちそうになりました。

 この時金持ちでテレビを持っていた親戚に、「オレが漫画を描いているやつが、テレビでやっている」と話したんですが、親戚は勘違いして僕がテレビに出ると思っちゃったんです。

 それで『七色仮面』が始まる時に、天ぷらや寿司をおいて、待っているんです。僕も呼ばれたんですが、番組が始まっても、一向に僕が出ない。それで、漫画を描いているだけかということがしれて、途端にみんな部屋から去っていきました(苦笑)」

 『白馬童子』(昭和35年)のコーナー。

一峰「『白馬童子』は、山城新伍さんが主演されてましたね。漫画は、またも競作で、僕と、南村喬(みなみむら・たかし)さんが描いてました。南村さんも、上手でしたね

 当時カラーページは、印刷(のインク)が赤・青・黄の三色しかなくて、黒は、この三色を混ぜると黒っぽくなるんで、そうして黒にしてました。だから、印刷のカラーページは、色が悪かったんです」

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↑『白馬童子』。

 『卜伝くん』(昭和34年)の展示。

一峰「『卜伝くん』は、私の作品では唯一、漫画からテレビ化された作品です。編集が力を入れてくれていたのに、私は何故か最初は8ページしか描かなかったです。連載は、2年続きましたかね。当時は連載は、1年くらい続けば良い方だったんで、2年は長いんじゃないかな(一峰先生の公式HPでは、全36回とあるんで、連載期間は3年ではないかと)。

 この作品では、潤ったですよ。当時テレビ放映されると、1回につき5,000円もらえるんです(原作料?)。月に4回放映だから、20,000円入ってきます。当時大卒の初任給が10,000円だったから、何にもしないで月に20,000円ですから、良かったです」

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↑『卜伝くん』。

 『ナショナルキッド』(昭和35年)。

一峰「今はナショナルという名がなくなって、パナソニックになりましたが、ナショナルさん提供の作品です。

 ここに、白黒だけの(ナショナルキッドの)原稿が展示されていますが、当時カラーにするのには、まず白黒の「主版(おもはん)」というのを印刷で作るんです。それで、主版に直接、色を塗っていくんですね。それで最後に、上から白黒の主版をもう一度のせると、綺麗に印刷できるというわけです

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↑『ナショナルキッド』主版。

 また、トレーシングペーパーで色指定をする方法があります。ここに展示されているのがその原稿ですが、白黒一色の原稿の上にトレペをかけて、赤ペンや青ペンを使って色指定をするのです」

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↑色指定原稿。

 『鉄腕マキ』(昭和36年)。

一峰「プロレス漫画です。当時は力道山の時代で、力道山に練習場にいらっしゃいと言われて、行きました。

 練習場(力道山道場でしょうね)では、レスラーがダンベルとか持ち上げたり、リングではレスリングをしてました。しばらくすると、部屋の中が、白く煙るんです。何かなと思ったら、レスラーの汗の湯気で部屋中がかすむんです。すごいですね。

 試合にもいらっしゃいというので、後楽園だったかなぁ、リングサイドの席をとってくれて、観ました。リングと目線が同じなので、レスラーが戦うと、ほこりが目の前に降ってくるんで、大変でした。

 僕は都合で、若手の前座の試合しか観なかったんです。若いレスラーが試合しているでしょう、片方が組み伏せられて、顔を締められたんです。そのレスラーは、痛くてヒーヒー泣くんです。そしたらリングサイドで試合を観ている先輩達(おそらくセコンド)がですよ、その泣いているレスラーに、「弱そうに見えるから泣くな!」と言って、その場で殴ったんです。試合では顔を締められて、先輩からは殴られて、今大相撲では「かわいがり」が問題になってますけど、今思うとそれと同じことだったのかなぁって、思います。プロレスも大変なものなんだと。

 そこにある写真は、力道山と写してもらったのと、自分もレスラーになった気分で、海水パンツを履いてポーズをとった写真です。胸毛は、マジックで描いてます」

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↑力道山って、小さかったんですね。それとレスラーになりきる先生。


ー一峰大二原画展 後編に続きます。


※『七色仮面』(1959年/東映)から、、主題歌を貼ります。

七色仮面 主題歌

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posted by 諸星ノア at 19:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 展覧会めぐり
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